Topics&Columns(2001年2月11日)

 

ニュージーランドにフィロキセラ

ワインは農作物なんです。虫に弱い。ニュージーランドに初めてフィロキセラが現れました。

フィロキセラは、かつてフランスのブドウ畑を壊滅に追い込み、そしてナパを2度襲った「超」有名な害虫です。根に住みつき、食いつかれたブドウの木は5年の後に死滅します。南島のオタゴ州で確認されたようです。オタゴは、南島のもっとも南の地域です(日本で言えば、南島を本州にたとえると広島県のあたり、と言えばわかりやすいでしょうか)。

セントラル・オタゴワイン生産者協会の会長であるスティーブ・グリーン氏は「まあこの世の終わりではないですから。いつかは来ると思っていましたし」としつつ、マールボロに輸入されたブドウの木に付着していたものとしています。「被害を最小限に食い止めるための手順は踏んでいます」

土を掘り返すこと、マシンに乗って次から次へと畑に行くこと、公の場に出ること・・・などが禁止されました。これはフィロキセラが発見された場所だけに被害を限定し虫が拡散するのを防ぐ措置です。

フィロキセラに強い台木の上に接木されているブドウは、500haの畑の45%とのことで、一本5ないし6ドル(NZドル)し、2000本/ha、プラス労賃で、全体で5百万ドル程度の費用がかかるだろうと見積もっています。各ワイナリー、毎年10%づつを植え替えしていく計画が作られつつあります。各ワイナリーとも、400から500本程度はこれまでに既に感染しているのではないかと見られています。

生産者のアラン・ブレイディ氏は「問題は品質ではないんですよね。経済性の問題です。ボディ・ブローのように効く。詳しくはわからないですが、どうも数年前からいたようです。20年も前から『遅かれ早かれくる』という話はしてましたよ」。そしてブラック・リッジ・ワイナリーのスー・エドワード氏は「それは迷惑な話ですが、皆が一緒になって取り組むしかないでしょう」と、台木を持たないブドウの木の植え替えのプログラムを現実に考えています。虫が靴に付着するため、人の動きそのものが病気の媒介をするというのはわかっているためです。「テイスティング・ルームからの人の出入り、スタッフの移動について、さらに予防線を張る」というのは、ウィリアム・ヒルのデイヴ・グラント氏です。

この情報のメイン・ソースは、NZインデペンデント氏のオンライン情報誌「スタッフ」からですが、さすがにNZでは大きな問題として取り上げられています。今まで台木をつけないブドウでやってきながら、適当だったのでしょうか?いつかも書きましたがオレゴンのボー・フレールでは、以前から畑に入る人は必ず靴を履き替えさせるということをやってるのですが。

いずれにしても、フィロキセラは、時間がかかるために致命的にはならないというのが最近の考え方です。特にNZのように木々がまだまだ若いうちで、消費者からすると不幸中の幸いだった。新興生産者は大変ですけどなんとか乗り越えていただきたいですね。(H)

 

暴れるフランス人のその後

どうも農務大臣のグラヴァニ氏は、生産者に対して15%の損に対しての補償を行うことにしたようです。生産者に約束したのは20%(前に30%と書いたような気がしますが・・・)でしたので、生産者たちは、この決定を取り消すように要求しています。さてどうなるか・・・(H)

 

白ワイン?赤ワイン?

白ワインに色をつけたら、白ワインとわかるか?という実験をフランス人がやりました。54名のいわゆる専門家を集めて、テイストしてもらりました。結果、誰も白ワインと気づかなかったのです。

このテストを行ったのは「ある」フレデリック・ブロシェという人のようです。タイムズ・オブ・ロンドンにこの模様が書いてあった。この私のトピックのソースは、そのタイムズの記事を見た、サンフランシスコ・クロニクルのジェラルド・ボイドが書いたコラムです。

そのタイムズには「いわゆるワイン専門家と呼ばれる人々は、一般のドリンカーに比較して優れているとはいいがたい。多分さらにひどいだろう。本当は客観的に味わいを定義することなどできない」と書いてあるそうです。

これに対してボイドは、”That's ridiculous'「ばかな!」と書いています。先のテイスティングの実験に対して、「(多分DRCの)モンラッシェなら、ロマネコンティの後に飲むことさえある穂ほど凝縮感のあるワインだし、アリゴテなら、中立的なワインで、ライトな赤と間違うこともあるだろう。」としています。白と赤と間違いようも無いということこそが偏見で、山ほども覚えることのある専門家を、それだけのテストで「専門家などくそ食らえ」呼ばわりするのはもっての他だということです。

ブロシェが行った別のテストでは、まったく同じボルドーを、ひとつは「高級グラン・クリュ」とし、そしてもうひとつを「ヴァン・ド・ターブル(テーブルワイン)」として二つ出してテイストさせてみたというものでした。「専門家」は最初のワインを”agreeable”「好ましい」と評したにもかかわらず、2つ目のワインを「弱い、平板な」ワインと評したようです。

ボイドは最後に、「ブロシェが呼んだ「専門家」とはただのオタクだったに違いない。彼らをカリフォルニアに呼んで、混ぜ物をいれたジンファンデルでもテイストしてみたら面白かろう」としています。

最後のジンファンデルは、間違いなくホワイト・ジンファンデルのことを言っていると思います。ホワイト・ジンファンデルに食紅を混ぜたら?それを「白ワインだ」と言えということですかね?ボイドは、その「オタク」の連中に、当ててほしいのか、当てて欲しくないのかよくわかりませんねえ。仮に当たったら/当たらなかったら、何と言うつもりなのでしょうかね?

しっかし・・・そもそも赤ワインを白ワインだといって評価する場面がどこにあるのでしょうか?当然常識を踏まえた上で評価をしないと意味はありません。「この赤ワインは、白ワインであり、その仮定にもとづくと、これには食紅が加えてあって・・・」などというコメントする可能性を考慮にいれることはないでしょう。

この話、どうでもよいテイスティングについてどうにでも取れる判断をした記事を見たコラムニストが、どうしようもないコラムを書いた。そしてそれを見た誰かがくだらない話を皆さんに紹介しているというふざけたもの・・・でした。ごめんなさい。(H)

 

人は人を造ってはならない

先週、アメリカのサクラメントで開かれたワイン&ブドウ・シンポジウムでは、遺伝子組み換え技術について様々な議論があったようですね。いくつかのソースで伝えていました。

カリフォルニア大学デイヴィス校のキャロル・メレディス教授は、「クローン選抜は一万年前から行われていたこと、最近の『遺伝子組み換え生物』という呼び方は非常に誤解を招く言い方。300年前からは交配というやり方も積極的にやってきた。現在は魚の遺伝子情報を植物に移植しても通常に機能する」と述べました。そして、フロリダ大学の研究グループは、ある虫の遺伝子をブドウに移植することでピアース病への耐性ができることを発表しました。そしてさらにガロは、DNAを使って病気を早期に発見するという技術の特許をとったと発表しました。

・・・・・・・・・・・

ちょっと重たい話をしてもよろしいでしょうか・・・。

以前から遺伝子組み換えが行われたブドウをどうのこうのという話題をわずかですが提供してきております。読まれて、それぞれに思われる方、思われないかたいらっしゃるでしょうが・・・。いずれにしても遺伝子組み換え技術を使って、「常に」「あらゆる」病気に強い「種」を作り出すというのは、ワイン学界の懸案でした。ワイン業界だけでなく、日本ではコメがその対象でした。なぜ懸案だったかといえば、数知れない組み合わせを処理するスピード、そしてナノの世界を操作する精密度が、学者の頭(空想家の頭かも知れませんが)についてこれなかったからこそ懸案だったわけです。今でこそ「クローン」が取りざたされますが、クローン植物がよくないという議論はかつては無かった。病気に強い植物を「造る」というのは善だったのです。

人間なんでも不可能だと思えば、そこで進歩が止まりますが、可能だと思えば必ず何からの進歩はあるものですよね。好奇心と勇気のおかげで、スピードも精密度も、すくなくとも人々の好奇心をあおる程度に進化し「人さえも造る」のを現実に考える輩が出てきました(もうすでに誰かが造っているのかもしれない)。スタートレックのSFの世界も身近になってきたような気がします。多分後10年もたてば、ワープ航法などができているのでしょうね。

しかし、私がひとつだけ絶対に怠ってはならないと思うことは、やはり、「倫理」の部分、「良心」とのチェックです。最先端の分野では必ず葛藤があるはずなのです。その葛藤を必ず公の場で議論すべきだろうということです。時代が飛躍する時には「倫理」のパラダイムの転換というのは、絶対に必要なはずなので、それをそうと理解してから先にすすみたい、と思うのです。「ブドウに虫の遺伝子を組み込むと病気にならない。技術的にできる。だからやるのだ」「豚の臓器は、人間に近い。技術的にもできる。だからやるのだ」という如何にもロジカルにも見える理屈だけで前に進むのでなく、そこにはノアの箱舟以来「様々な個々の種を尊重する」べきという倫理観から、「あるものを生かすための対処の方法としての種の混合はあってもよいのだ」という、新しい倫理観を理解する必要があるということを納得したいのです。そこをそれと意識することなく「なんとなくそうなっていた」というのは私はいやなのです。「踏み絵」を踏んでいかないと先にはいけない。

最近の映画で、ロビン・ウィリアムズが、手伝いロボット役で登場する映画がありました。この映画の中で、ロビン・ウィリアムズは、自分自身でロボットの機能を高める事に成功し、感情を持つことは当然のことながら老化もし、最後には「死ぬ」機能まで開発しました。そして結末は、人間の愛妻と一緒に死ぬという内容でした。全編を通じてユーモラスな「ロボット劇」でした。この映画を見たときに、「互いが違っても気持ちを通わせることの大切さ」というメッセージがあったとしても、何かしら腑に落ちないことがあったのです。それはやはり基本的な倫理をテストされないまま、それを飛び越えた世界で何かしら共感を得ている自分が不思議だったのかも知れません・・・

この話、まだまだ先の話と思っていたところが、本田から「アシモ」が登場しました。人間と見分けのつかない、間違いを犯さないロボットが歩き回る日まであと10年、そしてミスター・スポックのような、超ロジカルクローン人間が歩き回るまで20年(スポックは異星人ですが)。ひょっとすると、言葉をしゃべるサルまでいるかもしれない。私の生きているうちにその世界が実現されているかもしれない・・・。(H)

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