Topics&Columns(2000年12月10日)

 

ロバート・パーカーの話(その2)

―年間一万のワインをテイスティングする男―

・・・私がパーカーに会った時に、彼は、名声があるということは悪くはないが、目立つのは好きではないといった。でもワイン業界だけだからいいのだともいった。テレビやラジオに出るのも好きではないとも―以前こういう事があった。一時間待たされた挙句のインタビューに応じたときに「良く来てくれたねブルース。あまり時間がないんだけれども、どんなホワイト・ジンファンデルが好きなんだい?」というたった一つの質問だけされたことがあったからだ。モンクトンという場所はそのような世界からは隔絶されている。そしてかつてボルチモアのサン紙に彼のことが載ったことがあったが、近所の知り合いからは「やあボブ、君がワインのエキスパートだとは知らなかったよ。」といわれた。そのときはパーカーは、肩をすくめて「まあね」とだけ答えた。近隣では「いつものやつ」で通しておきたかったからだった。

もちろん少なくとも今や「いつものやつ」ではない。ワイン評論の成功によって彼は世界に飛び回ることになり視野は広がった。同時に彼独特の視点を提供することで彼は自分の仕事をキープし外界とは一線を画するということができるようになった。郵便局とかで近所付き合いのために天気の話とか政治の話はするのだけれども、彼の妻に言わせれば、実は彼の頭の中は食べ物とワインのことだけしか考えていないのである。時として彼は何を言っているかわからないことがある。メリーランド産のカニをほじくりながら、何とかヴィンテージのワインの話と長ったらしい名のついた料理の話をする。彼は強い信念に基づいた評論家でありながら、自ら大食家である。食べることは好き、もちろん飲むのも好きなのだ。これが間違っているなどという倫理主義者がいたら徹底的に攻撃する。

アメリカでは禁欲主義者とか栄養士などは相当な注目を浴びているが、パーカーが「快楽警察」と呼んでいる人々の存在がある。彼は「飲酒運転に反対する母の会」を攻撃する事はしないまでも、ワシントンに本拠がある「公益科学センター」は攻撃した。「今週のタブー」に関心のある連中だというのだ。パーカー曰く、「フェトチーネ・アルフレドは健康に害がありますか?クン・パオ・チキンは生活を壊しますか?馬鹿なことを言わないでもらいたいね。最初の週は伝統的イタリア料理、そして次の週は中華料理の代表格だ。彼らは中華料理は油だらけだって事を調査しているだけなんだ・・・どんな顔してるのか見てみたいものだね。彼らは何が楽しみで生きてるんだろう」

飢餓に満ちている世界があるにもかかわらず、メニューの中身を心配するのはわがままには思えないかという質問をぶつけてみた。ワインテイスティングなどという、いわば不必要なものに対して自分の人生をささげるということができるのだろうかという私が抱いていた疑問に対して何らかの回答が得られるのではないかと思っていたのだった。もともとこれは答えられるような質問ではなかった。彼はまず、かつてレポーターから「それほどワインテイスティングに時間をかけることができるのはどうしてだ」と聞かれて一度切れてしまったことがあると教えてくれた。「こういったのさ『別に理由はないけど、自分は常識人間だ。もし出来なかったらここにずーっとすわり続けることはない。君にはこれは出来ないだろうし、やりたくもないだろう。しかし私にはできるし、そうしたいんだよ!』」

私に対しては静かで、攻撃的でもなかった。「人生というものは、生きることそのものだけでなく、楽しむことでもあると思うんだよ。特に楽しい瞬間を見つけて、それを捕まえることでもあると思うよ」 彼のいう楽しみとは「食事をする」ということである。彼の生物学上の特質である誰にも増して強い味覚をもってすれば、「自分の楽しみは食事」とするのは仕方のないことなのだ。

パーカーは自分のことをヘドニスト(快楽主義者)とよぶ。自分をどう呼ぶかというのは自分の哲学がそこにある。彼は私"Between Meals"「食事のあいまに」(邦訳名未確認)というA.J.リーブリングの自伝をくれた。リーブリングはニューヨーカー紙の著名なライターであった人物で1963年に、59歳という年齢でなくなった。大食家でもあった。「食事のあいまに」という本はフランスで味わったビストロでのシンプルな喜びを記したものである。パーカーが自分に宛てられたと思わせた下記の文章で始まるのである。

食べ物についてうまく書くためのまず第一の条件とは、十分な食欲があることである。これなしでは短い時間の中で、書くに値するだけの食べ物を経験することが出来ない。一日に2回しか機会がないのだからコレステロールの摂取を最小限にするために、などといって一度も無駄にすることは出来ない。

リーブリングは、同じようにワインのテーマについても研究した。彼は限りなく太りつづけたが、晩年まで通風に悩まされながらも仕事を続け、最後まで後悔することがなかった。「衰弱させるような快楽なくして、人は普通に生きていけない。禁欲主義者たるや正常ではない。なんとなればヒトラーは禁欲主義の典型だった。彼がビアホールで水を飲んでいるということをドイツ人が見れば、信用できない人物だとわかっただろう」

パーカーがリーブリングの本を私にくれた理由はある。彼は自分の自伝をいつか書きたいのだ。しかし二人の人物はあまりに違いすぎる。リーブリングは文章の手品師であり、垢抜けていて、大酒飲みのニヒリストである。一方のパーカーはこのうちのどれにも当てはまらない。彼は締め切りに追われるテクニカルライターに過ぎない。そうは言っても、彼はリーブリングと同じように、食に対する姿勢は情熱的である。曰く「いつもあるルールに従っているんだ。やるに値することは、やりすぎるにも値するというルールにね」

 彼自身も鏡を見れば、長年の結果が一目瞭然である。実は彼はマウンテン・バイカーなのだ。かつては速かったが、今は若い人々のバイクに追いつこうと躍起になってもそれができるのはたまにだ。

ワインビジネスの人々はパーカーの健康の話をしたがる。つい最近、カリフォルニアでパーカーは口の中にガンが出来ているという噂を耳にした。本当はそのようなことはない。ボルドーではパーカーは心臓病を患っているという話もきいた。しかしこれも真実ではない。これらの話は3年前のニューヨークでのあるフランス料理屋での出来事に端を発していると思われる。10種類のコースメニューの最中に、パーカーは急に気分が悪くなり、汗をかき、食欲を失い、耳鳴りがし、そしてじっとしていられなくなった。その場に居合わせた心臓外科医は心臓発作だと思ったようだった。パーカー自身はそうではないと思った。結局救急車で外に運ばれることになったのだったが、運ばれる最中にパーカーの視界に入った人物がいた。上院議員のジョージ・パタキだと思った彼は、叫んだ「ホタテはくうな!」。万一のことがパーカーにあったなら、この言葉が墓碑銘に刻まれたことだったろう。だが病院では潰瘍からの出血が見つかった。心臓ではなかった。直るのには時間はかからなかった。

この例以外には、彼のペースが鈍ることはない。年間に一万のワインをテイストする以外に、テイストした感覚を自分の味覚ライブラリーに記憶する。私がその手順について質問したところ、本当の所は・・・というのを教えてくれた。彼は32年間に渡ってテイストした全てのワインと、自分が与えたポイントまで記憶しているのだという。全体としては数十万ワインを記憶していることになる。そして自由にその記憶を呼び出すことができるのだ。彼自身どうしてそんなことができるのかがわからないが、多分ワインをテイスティングしているときの強烈な集中力によってそれが可能になるのだろうという。「口の中に含むワインをただみてみる。3つのポイントがある。テクスチャー、フレーバー、そして香り。こちらに飛びかかってくるのさ。何百もの子供がいっせいに飛びかかってくる感じだ。その全部が誰だかわかるのさ。グラスの中のワインを嗅ぐときは、まあトンネルのようなものかな。いままで自分を囲んでいたものは全部飛んでなくなって、別世界の中に入る、そして全て感覚エネルギーをワインに集中するんだ」 それをやれば、否応でも記憶に残ってしまうということのようだ。

結果として彼は、生存するどの評論家以上に広範囲の知識をもっている。フランスワインはもとより、ドイツ、スペイン、イタリア、チリ、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドその他の国々のワインについても。一人で点数付けを行なう評論家はパーカー一人なのだが、様々な自分のデータベースの中のワインと比較する。実はこれは一人の消費者のパターンと同じだ。多くの評論家は点数はつけるが自分の経験に限定されているし、あるいは他の評論家のポイントとの関係で極端な点数にはならないようにしている。ゆえに経験豊かなパーカーのポイントというのは他と比較すると明らかに優位性を持っているのである。中庸の評論家が多い中で、ワイルドに力強く駆け抜ける彼の勢いは他を圧倒している。他の評論家達がパーカーに対して不信を抱くことは簡単でも、評判を独占しているという非難をするのは筋違いなのだ。

彼は自分の置かれた位置は、後悔と傲慢の間で揺れ動いていると感じている。彼自身は自分の考えを人に押し付ける考えは毛頭ないが、現実的にはそうなっている。その矛盾は自分でも理解している。そしてたった一人の人物がそこまでのパワーを持つべきではないということにも理解を示す。彼のコメントは「率直な意見」以上の意見として捉えられているので、受け取られ方は簡単ではない。彼がもし「秘密だが」というような書き方をしたならば、瞬く間に公知の事実となってしまう。もし彼があるワインに90ポイント以上の点数をつけたとすると、しかもその生産量が少量であるならば、そのワインを買いあさる人々が現れ、瞬く間にショップからそのワインは姿を消し、値段は高騰する。一方で批判的な内容や低いスコアが与えられると、生産者は財政的に苦しい状況に置かれてしまうようなことにもなりかねなくなってしまう。いずれにしてもパーカー自身は、自分のコメントをそれほどシリアスに受け取ってもらいたくないと思っているようである。しかし、もちろん彼自身は身を引くことも、この場から去ることもない。

技術的には、彼より優れたテイスターがいるのも事実である。ワインというのは結構分野が広いもので、より狭い分野での専門家はいるものである。特定の地域の中でワインを選別する人は、その地域のワインに関してはパーカーより知識もあれば、歴史も知っているし、テイスティングする能力も高い。

パーカーは実は保険をかけている。自分の舌に、百万ドルの障害者保険をかけている。万一鼻が利かなくなったときには、その保険がでるのだ。鼻が利かなくなって、そしてワインテイスティングが出来なくなったというあるヨーロッパの評論家に出会ってすぐにその保険をかけたのだった。私は「数百万ドルぐらいですか?あなたのキャリアを考えたらそれぐらいになりはしませんか?」と述べると、パーカーはうなずきながらも、保険会社はそこまでは応じなかったと述べた。「もし何もにおわなくなったとクレームすれば、間違いなく彼らはえらいくさいものをかがしてテストするだろうね」と言って笑った。

今のところは彼の感覚は正常である。通常の彼のやり方はこうだ。午前中にタニックで複雑と思われるワインのテイスティングを行い、そして一日の締めくくりは割にシンプルな白ワインとなることが多い。彼はグラスが清潔かどうかをまずチェックする。変だと思ったときには、吹き込んでみてそれで石鹸、塩素、木、ダンボールのような変な香りが残っているかどうかを確かめる。「パーカーの吹き込みテスト」と呼んでいる。あたかも商標でももらってるような言い方をするのだ。グラスが汚れているときには、ボトルに入れた水でグラスを洗って乾かす。そして初めてワインを注ぐ。次に一方の手を腰に当てて、グラスをもちあげ、ワインを観察し、ワインを嗅ぎ、ワインをスワーリングし、ワインを口に含み、舌でワインをかき回し、息を激しく吸い込み、口中にワインを行き渡らせて、最後に勢い良く鼻から息を出す。わずかにちょっとだけ、ためらうようなしぐさをして、ワインを吐き出し、そして余韻に集中する。いくつかメモを取り、そしてテープレコーダーにコメントを残す。そしてこのプロセスをもう一度繰り返し、自分の印象を確認する。

彼を中傷する人々でさえも、一度コメントしたことがあるワインを、もう一度ブラインドでコメントしたときのパーカーのコメントは一貫性があると認め、それらのコメントはどのワインに対しても同じ様に表現されるという。熟練したワインテイスターでパーカーコメントに慣れている人ならば、彼の嗜好と同じでなくても、彼のコメントに対して自分の尺度を比較することでワインを比較することが出来てしまう。現実的には一般の人々はポイントのみを比較する。パーカーは自分の判断に対しては大きな自信を持っているが、間違いを犯すこともあることも認める。しかしめったにないから、間違いはいとも簡単に認める事ができる。

最近のボルドーでの出来事を話してくれた。誰かが持ってきたソーテルヌを何気なく口に入れた瞬間、10年前に飲んだあるワインを思い出した。あるいは少なくとも10年前に飲んだあるワインは、今はこうだろうと思わせた。聞いてみるとまさにそのワインだったのだ。しかしこのような出来事は、彼にとっては日常茶飯事だ。このような彼については、ボルドーの人々は、彼のテイスターとしての能力は彼の知識とか知性には全く関係ないと思いたいのである。ただのキチガイの学者だと信じたいのが本音である。

パーカーはかつてはボルチモア農業信用銀行のお抱え弁護士だった。彼自身はその仕事が退屈だったという。ワインとは無関係なバックグラウンドをもっているわけで、その点ではボルドーの人々は部分的には正しいとも言えるが・・・彼はもともと異常な程、嗅覚と味覚に飛びぬけた才能をもっていたのである。幸運なことに、彼自身がその「特権的才能」に気が付いた。しかし彼は、アメリカ人らしく、それがただの才能ではなくて「それを開拓した」ということははっきりと見せ付けたかった。そのためにともいえるが、4ヶ月の間、実際、世界中のワイン産地を歩きまわった。交友を深めたい、観光をしたいという要求を振り払って、毎日ワインテイスティングに没頭しつづけた。いくつかのワイナリーは訪問したが、時間を無駄にしないようにワインを集めさせてホテルに閉じこもってワインのテイスティングを続けたこともあった。そういう意味では努力して開拓したといえる。

彼の行動には機械的に行なって高い品質を保つようなところがある。自宅では一週間に6日は仕事をする。すさまじい勢いでそれをする。自分自身が監視役でもある。自分がコミットした出版のスケジュールを守るのは彼の使命でもある。しかし、彼に対する期待は膨らみつづけ、とどまることがない。これまで以上に新たに増えつづけるワインに対してコメントを書いていけなばならない。そして一方で増え続けることが前提のオールドヴィンテージワインに対してコメントを書き直していかねばならない。無論全部というわけには行かないが、彼自身が創り出した「一人コメンテーターによるワインのポイントシステム」の世界をキープできるのは彼しかいないのである。パーカーのパリでの出版業者は、私に向かってこういった。「パーカーは悲劇の人物である」というのだ。古代悲劇の登場人物だというのだ。この話をパーカーにしたときに、パーカー自身はそのようなことはないと言い切った。確かに彼の成功は、彼の仕事に対するたゆまない、そして子供が持つような情熱によるものである。しかし彼はすでに身動きが取れないジレンマに陥りつつあるのも事実である。

むろんそのジレンマは彼自身を短期的には大きなヘルプになっている。パーカーの出版物の出版数は巨大だ。年間350ページを越えるWine Advocateのほかに、バイヤーズガイドも出版している。後者は既に11版を数え、5ヶ国語に翻訳され、フランスを含めた多くの国でベストセラーになっている。Wine Advocateよりも大きな収入源になっている。自らが築いた尺度で自らを裕福にしたのだ。彼は自分自身がラッキーだったことに対しても素直に認める。かつては貧乏であったし、今はそうでないことに喜びをかみしめる。だがパーカーが一般のアメリカ人とちょっと違うのは、相変わらずお金には興味がないということである。

つづく(H)